1.人を愛するものは兄弟を憎まない
・先週から、ヨハネの手紙を読み始めています。ヨハネの手紙は、異なる福音を信じる人たちが教会内に生まれ、混乱が生じた教会にあてて書かれています。教会内の一部の人たちは、「神は霊であって、その神が人間の肉体の形を取って世に来たなどありえない」とキリストの受肉を否定しました。また彼らは、「神の子が十字架で死ぬことによって私たちの罪が贖われたという非合理なことを信じるわけにはいかない」として、十字架の贖いを否定しました。その結果、キリスト降誕に対する喜びも、罪の赦しに対する感謝も教会からなくなっていきました。彼らは教会を割って出て行きましたが、残された人たちは混乱の中にあります。その信徒たちに長老ヨハネは書き送りました「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(1:8-9)。
・罪を認めて悔い改めの生活を始める、それが救いの第一歩であり、信徒の生き方であると長老は教えます。今日、読みます手紙2章は1章の教えを受けて、信徒はどのような生活をすべきかを述べます。一言で言えば「愛し合う生活」です。長老は語ります「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。(2:1-2)。「罪を犯さないように」と長老は言います。しかし、彼は私たちの弱さを知っています。私たちは洗礼を受けても罪を犯さざるを得ない存在です。しかし、その犯した罪もまた、天に帰られたキリストが執り成して下さると言います。
・それは罪を犯しても良いということではありません。罪を犯さざるを得ない弱さをキリストは知っていて下さる、だからキリストの教えを聞いていく生活をするのだとヨハネは言います。それを述べたのが次の箇所です「私たちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(2:3-6)。キリストと共に歩むとは、御言葉を聞き続けて、生活を変えていくことです。神への愛は、一部の人たちが主張したように感情的な言葉や霊的な体験によってではなく、生活における服従によって示されるのです。
・ではキリストの戒め、教えとは何か、それは「愛し合うことだ」と長老ヨハネは言います。キリストを愛するものは兄弟を憎まない。信仰が私たちの生活そのものを変えていくからです。しかし、ヨハネの共同体では自分たちの考えに固執する人々が、教会を混乱させ、挙句の果てに、教会から出て行きました。愛し合うことが出来なかったという現実を、ヨハネは見つめて言います「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(2:9-11)。
2.世と世にあるものを愛するな
・教会の中に世の欲が入りこんできます。肉の欲、目の欲、生活のおごりが信仰を曲げることが起こります。だから「世と世にあるものを愛するな」とヨハネは叫びます。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(2:15-17)。
・この世の肉の欲、目の欲、生活のおごりとは、直接的には、人間の本源的な欲望を指します。多くの人が今現在の満足を求めますので、欲と欲がぶつかり合って、世には争いが絶えません。食欲を満たすために他人のものを奪ったり、性欲を満たすために他人の人格を侵したり、権力欲や地位欲を満たすために競争相手を押しのけたり、財産欲を満たすために他人の財産や権利を侵害します。「自己中心主義」です。食糧価格の高騰によって第三世界に飢餓が生じています。それを解決するために先日ローマで食糧サミットが開かれましたが、食糧価格上昇の一因とされていますバイオ燃料(穀物で石油代替品を製造する)の主要生産国であるアメリカやブラジルはその生産をやめようとしません。食糧価格の上昇は自国にとってプラスだからです。現代の日本でも、この自己中心主義があふれて住みづらい世の中になっています。
・皆さんは言うかもしれない「私たちキリスト者はこのような自己中心主義の欲からは解放されています」と。おそらく、そうでしょう。しかし、教会の中でもっとも恐るべきものは、そのような表面的な欲ではなく、私たちの心の中にある欲、「人に喜ばれ、尊敬され、世の誉れを受けたい」という、社会的な欲です。それは反面、「他人に馬鹿にされたり、非難されたり、仲間外れにされないようにしようとする心」を生みます。罪よりも恥を気にし、神よりも人にならおうとする態度です。「人間関係中心主義」と言えるでしょう。ヨハネ教会の問題は、一部の人たちが、自分たちは正しい、それが受入れられなければここを出るとして教会を割って出て行ったことです。神よりも人に関心が行く、この「人間関係中心主義」の欲が教会の交わりを壊し、教会を分裂させたのです。
3.愛の掟に生きる
・今日の招詞としてヨハネ13:34-35を選びました。次のような言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」
・イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちの足を洗われました。ユダヤでは食事の前に、召使が客の足を洗い、清めてから、食事をするのが慣わしでしたが、その日は誰も足を洗ってくれませんでした。弟子たちは困りました。自分が同僚の足を洗うのはしたくない、足を洗うのは召使の仕事であって自分の仕事ではない、弟子たちはそう思っていました。その時イエスが立ち上り、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始められました。弟子たちは、びっくりし、恐縮します。その弟子たちにイエスは言われました「師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)。イエスは弟子たちに「神の国ではほかの人の足を洗う人が一番偉い」ことを、身をもって示されたのです。
・そしてイエスは弟子たちに言われました「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。イエスは、愛するとは仕えることであることを示すために、自ら弟子たちの足を洗われました。イエスが弟子たちの足を洗われたとき、その中にはイスカリオテのユダもいました。既にイエスを裏切ることを決めていたユダの足をも、イエスは彼の悔い改めを祈りつつ洗われます。自分に背こうとする者の足をも洗うのが神の愛です。
・私たちはイエスを通して、この神の愛を知りました。この神との関係なしに「愛し合いなさい」といくら叫んでも、愛は生まれてきません。神が人を愛されたから、人は人を愛することが出来る。神が人を赦されたからこそ、人は人を赦すことが出来る。神の愛が先行する、あなた方はその愛を受けなさいと聖書は教えます。これは心理学でも実証された真実です。心理学では神の代わりに、親という概念を用います。「親に愛された子供は、他者を愛することが出来る。親に赦された子供は、他者を赦すことが出来る」。逆に言えば、親の愛を十分に受けていない者は、他者を愛することが難しいのです。
・ヨハネは言います「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」(3:11)。愛の不足は人の性格をゆがんだものにします。愛ほど、大切なものはない。愛は命の問題でもあります。この愛とは、親が子を愛するような愛です。親は子が生まれると、食物を与え、身の回りの世話をします。雨の日でも晴れの日でも、子の世話をします。そうしないと、生まれたばかりの子は生きていけないからです。このような愛をいただいて、私たちは大人になります。そして、大人になった今もこの愛を必要としています。聖書は神がこのような愛で、私たちを愛されていると告げます。この愛こそが、私たちに必要な霊の糧なのです。この霊の糧をいただくから生きていけるのです。
・私たちの愛の本質は自己愛であり、むさぼる愛です。愛されたいから愛する、相手に価値があるから愛するのです。従って、相手が愛してくれない時、相手が裏切った時、相手の価値が下がった時、私たちはもうその人を愛することはできません。世に離婚がこれほど多いのは、世の愛=ギブアンドテイクの愛がいかにもろいのかを示しています。このような愛では、私たちは生きていくことが出来ません。人に裏切られるたびに人生が閉ざされていく生き方になります。イエスが教えてくださった愛は、このような愛とは根本的に異なります。それは、相手の足を洗う愛です。私たちもイエスにつながり続ける時、そのような存在に変えられていきます。イエスの愛に留まっていれば、私たちも豊かに実を結ぶ者となると約束されています。
・イエスの愛に留まるとは、教会に留まることです。教会に留まって、毎日曜日にイエスの言葉を聞くことです。日曜日の礼拝に参加するとは、読まれる聖書の言葉を通して、一週間の自分の生活を振り返ることです。神がどんなにこの一週間、私の行動に我慢され、それでも見捨てられずに、また礼拝に来ることを赦された、その恵みを思うことです。こうして私たちは、キリストの弟子として成熟していきます。そして、ある時、人の足を洗う者に変えられていく。そのような約束がイエスから与えられていることを、今日は覚えたいと思います。